☆中国パートⅠ

このノモンハン行きは予定計画したからではなく長春市の友人が旅行会社の国営旅行会社の幹部で、一般の人は行けないが特別な方法で行けるから行かないかとの誘いに乗った。特別な方法とは国境警備隊に寄付金(ワイロだろう?)を払うのだ。ハイラル市のホテル、通訳運転手1泊2日で1人75000円、ちと高いが叔父もここで戦死しているのでまあいいっかと奮発して決行したのです。
中国、モンゴル、ロシア、この3国の国境近くに1939年に生じた戦争跡ノモンハンがある。中国語では諾謀汗と書きますが、元々蒙古語の地名です。当時ここで死んだ日本人兵士は54000人、小松原本部司令官は責任を感じてハイラル市でピストル自殺した。元々この紛争は国境争いから生じたもので蒙古、当時のソ連が主張する国境はこの地域を流れるハルハ河から東へ20~30kmと大変大雑把な主張、一方日本の傀儡、満州国の主張はハルハ河が境界、国境だと主張した。そこで2度の争いになりましたが、1939年は2度目の争い、日本はソ連蒙古軍にボロ負け。理由はいくつかあるが、司令部のあるハイラル市から現地まで私は車で約3時間、それも行けども行けども自然の草原のみ時速100K~120Kで運ちゃんが飛ばす。時々トラックがすれ違うだけ、また草原には馬の放し飼い、羊、牛がところどころで集団をなしている。

日本軍はここを徒歩で戦場まで行軍。水不足、食料不足で下痢や蚊の大群に襲撃されたり戦う前からグロッキーだった。加えて日本軍は日本兵の他蒙古族や満州族、朝鮮族など混生軍団、中国人ガイドの話によるとこの民族の兵士は食べ物、労働などで酷しい差別をしたため反発を感じた同じ民族の相手の蒙古軍に寝返ったりしたそうだ。
更にソ連との武器の近代化の違い。ソ連戦車は50~60トンの砲身の長いタンク、日本はその1/3~1/5の小型タンク、タンク同士がぶつかると日本のタンクはソ連のタンクに上にのしかかられてつぶれてしまったそうだ。現地は大草原で地面に穴を掘って隠れるしかない。私の叔父もここで戦死して遺骨も何も無い、血のついた腹巻の一部だけ遺品だと渡されたと聞いた。更に日本軍の始末の悪いのは当時中国では毎日勝った勝ったの日本中大騒ぎ、100人切の兵士が英雄扱い、マスコミが調子に乗って連日囃したてる。昭和20年の地獄の*敗戦に向かってまっしぐらなのに。だから大本営はこのノモンハンの大敗戦を隠しに隠したのだ。
まず生き残った兵隊には自殺を強要したりして秘密にした。遺族には手厚くお金お墓を国から与えた。私の叔父も川口市の寺に我家に不似合いな高さ3mもある立派な墓石を貰ったのを子供の頃母に連れられて見たことがある。北海道の炭鉱の3男にこんな立派な墓を立てたのは前述の国策だった。
あたり一面の草原しかなかったが小さな村に着き、地元案内人の雑貨屋の蒙古族のおばさんを乗せ国境警備隊の建物に、建物に入らず門の外で待っている下士官らしき2人の兵士が来てパスポートを見てすぐOKのサイン、ここから道のない草原を20分ほど行った所がここですと通訳が指差す。60cmぐらいの高さの石碑が中国語で書いてある。ノモンハン戦場跡と。ここで満州国ソ連の手打ち式にて停戦成立。54000人の死体をここでガソリンをかけ焼いたのだ。合掌。
ところどころに鉄かぶとやかんづめの焼け焦げたのが散らばっていた。よく見ると人骨らしきものもあったが迷った末手に取ったが捨てた。
元々ハイラルに戻り翌日は日本総司令部跡を見学、司令部らしく小高い丘にてハイラル市が見渡せる地下30m~50mに通信司令部、兵隊官舎、炊事場、病院、通信室などがあり相当な労力を当時費やしたことがしのばれる。この地下壕司令部を数千人中国人苦力を使い工事終了後秘密保持のため全員を銃殺したのだ。
数キロメートル離れた所に万人杭と呼ばれる殺された苦力の墓地があるとのこと誘われたがさすがに断った。