☆日中ビル建築事情

先日、中国の友人の紹介で中国国内で分譲マンション、オフィスビルなどを手がけるディベロッパーの社長が訪ねてきた。六本木ヒルズやミッドタウンなど最新の都内の建物などを見学した後自分が現在手がけている中国深圳での大がかりな高層ビル開発事業に使用したい部材建材を視察に来た。私に案内しろと。
何を目的にを具体的に確認するために、泊まっている日比谷のペニンシュラホテルを訪問した。日本に9年いる一ツ橋大学院の女子留学生が通訳として上海出身の陸さん、40代後半の張社長に会う。
あらかじめ必要なテナントが入る玄関ドアやウィンドウ、階段出入口や案内版など最新デザインの物が欲しいらしい。来日する2日前に突然の連絡ですからこちらもサッシュメーカーなどに問い合わせ見本市、展示物を探すのに汗をかいていた。それでも当日まで4~5社の資料を取り寄せメーカーのアポイントメントも済ませた。
会って話の内容を確認すると、昨日ミッドタウン、六本木ヒルズ、赤坂サカスなどを見学してきて日本のデザインと技術はすばらしい。現在自分の開発事業現物にて是非同じものを使用したいとのこと。
年商約400億(日本円)、現在の深圳の総事業費は約200億から300億だ。全体像のパーツをみると一部テナントビル、分譲住宅ビルで外装中、テナントビルに日本のデザインと部材を使いたいとのこと。
驚くことに既に全体の建物のうちスケルトンまで出来上がっているではないか。
ここで日中の建築方法の違い、慣習の違いをまざまざと見せつけられる。設計図などはきちんとあるのかしらとも言いたくなる。
とりあえずミッドタウンに3人で行き、張社長自身お気に入りの場所数十個所を見せられる。本人がデジカメであたりかまわずパチパチと写す。通訳にあまり大っぴらにやるなと注意するが伝えない。言っても聞かないからだろう。時間と金と頭脳が費やされた場所の作り方だから無断で写すことをやめた方がいいというとようやく通訳どうりにした。
そのあとあらかじめアポイント済のサッシュメーカーに行く。
説明を受けるがどうもしっくりこない。通訳の女性で建築内容にはうといためもあるし中国と日本の習慣の違いが頻繁にあらわれてくる。
テナント大型高級ビルは設計士とゼネコンがイニシアチブをとり、ほとんどの部材がオリジナルにその場所のために洗練された設計士や経験豊かなゼネコンの社員たちが日本の気候風土や耐震性、雨対策などを考えて時間をかけみがかれた感性を更にみがきその場所だけの世界を作り出すのです。しかし、中国ではその設計士の役割と立場がきくところによると、あいまいでオーナー、施主の力が圧倒的に強いらしい。更にこのサッシュメーカーの事務所で手順などを説明してもどうもこの社長理解できなくて、ミッドタウンのつくりをその気にいった部分を切り取って船に乗せそのまま運べないかのような希望をのたまうのだ。
この気に入った出入口やウィンドウをそのままどこかで売っていないかなどと希望しているようだった。
全部注文製作などといってもわからないようだ。設計図、全体図、パーツなどからどういう建物がいいか提案しますとのメーカー側の説明も理解できないのです。ミッドタウン建設に参加したメーカーなのでどんな対応でも出来ますとのことも理解できないのです。
そのメーカーの展示場には個人住宅用のモデルケースしかないのでどうしてミッドタウンの様な素晴らしいものがここにはないのかと不満そう。
既に出来上がっているビルのスケルトンの後に部材を探していることにここのアルミサッシュメーカーも驚くことしきり。私も通訳と社長に限界を感じてサッシュメーカーの訪問は2件でやめた。海外に強い某サッシュメーカーの中国北京事務所の連絡場所を教えて別れた。

足尾鉱山

わたらせ渓谷鉄道にて足尾鉱山跡を訪ねてみた。
群馬県桐生駅から第三セクター鉄道わたらせ渓谷鉄道に乗る午後3時頃、桐生市は昔から織物の町で発展したが今はさびれてしまってパチンコ機械製造の会社が一時羽振りを利かせたが他市へ行ってしまい全国の地方都市と同じように昔を知っている人にとっては寂しい限りです。
第3セクターわたらせ鉄道に乗りこみ大間々の町に入ると渡良瀬川の右岸を走るようになる。上流に草木ダムもあるためこの川の水は少ない。日本全国特に太平洋側の河川は総じて水量が少ない。隆々たる流れなどは河口の近くに行かなければ見られない。
途中から大手ツーリストの主婦の観光客が1両編成にどっと20人ぐらい乗り込んできた。関西弁で70歳代の人達だ。カメラで窓から写真を撮る人、仲間の処を歩き回る人、外の景色はそっちのけでしゃべくりまわるオバタリアン。その他は地元高校生が帰宅する社内。ローカル色満点だ。列車は左岸に渡り草木ダム近くになると長い長いトンネルに入る。薄暗い車中にやわらかくて心地よい関西弁が聞こえる。
桜が満開の駅でこの団体客は下車し車内は静かになった。トンネルに入りトンネルを出るともう足尾が近い。
足尾鉱山が国策にて隆盛をきわめたこの町は戦前は宇都宮に次ぐ栃木県第2の規模の都市であった。当時6万~10万とかの人口が現在は2000人だそうです。鉱山町特有の軒の低い家が並び廃墟と化した建物が目につく。草むらに小学校の門柱だけが建っていた。人のにおいがするのだがうら寂しい気持ちになる。映画館、遊郭などの跡地も見学。戦争前は銅を産出、鉱毒事件は下流の足利市などで生じて公害の原点といわれた足尾鉱山だが銅を採取した後の残土を町中あちこちに捨て、小学校の校庭にも捨てた。捨てる場所もなく渡良瀬川へこの残土が入りこみ公害となったのだ。銅を製錬する時に出る煙が周囲の草木のほとんどを枯れさせてその結果、山が崩れ閉鎖した。今でもその防止のための土塁工事や植林が行われている。
戦争中ですから文句を言えばお国のため天皇陛下のため頑張れと言われ我慢するしかなかったのかもしれない。ここで産出する銅が3パチ歩兵銃や機関銃、大砲の玉になったのだろう。当時、強制労働の中国人も数千人いたとも聞くが、事実ですからこのつけは未だはらわれていない。中国が強大な力をつけ20年後にGDPは日本を追い抜くのは確実なので今のうち正式に国家として罰を認め謝罪をしておかないと何倍もつけを払うようになるかもしれない。近代日本史の負の遺産だがつい最近の60年ぐらい前まで栄えていた町が急に寂れたこの町をみると今すぐ元の映画館や小学校が現われてくるように脳裏に浮かぶのは何とも栄枯衰盛をしみじみ感じ入りうら寂しい限りだ。
いろいろな歴史があり時代に翻弄された足尾の町を通り終点間藤駅に着くと4月中旬だというのに前年より10日も早い桜が満開であった。